«  武士の誇りと 庶民の欲 | トップページ |  「反貧困」 »

2009年3月 8日 (日)

 幸徳秋水と大逆事件

人気ブログランキングへ引き続き、何故僕等自身とその社会が政治意識において未成熟であるかを考える。日本国民の2割に満たない士族階級が、明治後も理性ある市民層を形成したと考えるのがもっとも自然だろう。それに裕福な商人層の子弟、極少数の地主階級の息子や娘。

意志的な市民層を形作り、批判精神旺盛な世論が成り立つには絶対的な数が足りない。それでも僕等の社会に市民社会萌芽のチャンスは有った。だが、それは明治新政府により帝国憲法成立と引き換えにつぶされてしまった。

そんな時代を先駆的に駆け抜けた人物がいた。その人の名は幸徳秋水。その名前は歴史の授業で簡単に取り上げられるだけだが、彼は中江兆民の愛弟子だった。ルソーの「社会契約論」を日本で初翻訳した中江兆民。その思想を実践的に果たそうとした幸徳秋水の歴史的役割は決して小さくない。

幸徳秋水の名前は「大逆事件」、現在では国による冤罪事件の典型として良く取り上げられる。時の天皇暗殺を企てたと言う嫌疑を受け、たちまちのうちに処刑されてしまった事件の首謀者としてあまりにも有名だ。

彼は明治33年(1900年)には憲政会の野合に抗議し、翌34年(1901年)には世界史的に見ても極めて速い時期に帝国主義に反対する論陣を張っている。現在では、彼の活動は国際的にも評価が高まっていると言う。

考えてみると、日本で市民層が育ち始めるのは明治末から大正にかけてだろう。おおざっぱに見て、1910-15年あたりになるのか。それは近代的都市住民が形造られた時期に当たると見て良いだろう。学問と職を求めて上京する人々の群れが形作る帝都、東京。

幸徳秋水は明治43年(1910年)に判決後異例の速さで処刑されている。時の政府の慌てぶりが手に取るように分かる。出来るだけ早く意志的な市民層が造られたり、今では何でもない民主的な考えが大衆に広がる芽を摘み取ろうと明治政府は考えたのだろう。

それには天皇暗殺計画は一般庶民に取っては衝撃的事件であり、幸徳秋水等は大不敬の大悪人に仕立て挙げなくてはならなかった。画して、幸徳秋水達は歴史の闇に葬り去られ、民主的社会成熟の絶好の機会は失われた。

尚、明治37年(1904年)に始まり、時の合州国大統領、C.ルーズベルトの仲介で、辛くも講和に持ち込まれた日露戦争は同時代の明治38年(1905年)の出来事だ。大衆は講和の少ない成果にいらだち、焼き打ち・暴動を引き起こす。

世界は弱肉強食、帝国主義の時代。帝国日本も強国に歩調を合わせ始める。幸徳秋水の思想と実践活動は明治政府に取って本当に邪魔だったのだろう。画して、明治政府の変質が始まり、それは昭和20年の敗戦まで止まらない。

尚、国家によるでっちあげ・冤罪は北米の「サッコとバンゼッティ事件」(1920年)や時代を少し遡ればフランスの「ドレフュス大尉事件」(1894年)といくらでも例に上げることが出来る。権力者による報道をうのみにしない姿勢がが大切なのだろうと思う。

|

«  武士の誇りと 庶民の欲 | トップページ |  「反貧困」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1210330/29542523

この記事へのトラックバック一覧です:  幸徳秋水と大逆事件:

«  武士の誇りと 庶民の欲 | トップページ |  「反貧困」 »