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2009年4月18日 (土)

 「雑兵たちの戦場 」 追記。

今回のブログ「雑兵たちの戦場」で僕が一番書きたかったことを2つだけまとめてみた。もちろん、著書からの引用なのだが、「目からウロコが落ちる」。発見は出版から時が経っていてもある。何度か紹介されている歴史的問題提起を改めて書いておく。

1.謙信配下の雑兵たちもやっていた戦場の奴隷狩り。雑兵には「愛」なんてない。

上杉謙信は度々、冬、雪の閉ざされる11月に越後を出て春、5,6月まで雪のない関東平野で「いくさ」を行っている。それには一定の周期性があり、永禄3年(1560)から天正2年(1574)までだけでも結局都合14年にも及んだと言う。越後兵は毎年、恒例のように上越の遅い春を待つかのように端境期の春5,6月過ぎまで毎年関東平野に残り、やっていたことと言えば馬乗りの武士階級はともかく、雑兵達はもっぱら喰う為に戦場の奴隷狩りに精を出していた。さて、その上で戦場で狩られた農民達、女や子供たちはどこへ売られたのか?と言う疑問が出るのは当然だ。戦争奴隷の多くはヨーロッパ人の手で東南アジアの都市に売られて行ったらしい。各地にあった日本人町も関係はあるのだろう。

2.江戸幕府 鎖国の本当の理由

謙信配下の雑兵により関東平野で狩られた戦争捕虜はビタ銭で奴隷仲介商人に売り払われ、折から戦国・日本に布教の為に滞在していたスペイン、ポルトガル人宣教師はなにも書き残していないが、その大量の戦争奴隷はポルトガル、スペイン人の黒船に売り渡されていた。長く戦乱の続いた故郷で飽くことのない戦いを強いられた上に敗北し、戦場で狩られた下人達もまた雑兵上がりだった。それは無限の最強兵士を、東南アジアで抗争を繰り広げるオランダ・イギリス連合とスペイン・ポルトガル連合の双方に傭兵を供給することを意味していた。時代は少し下るものの、家康は新教旧教の激しい対立を良く知っており、漸く訪れた平和をヨーロッパ人達の宗教抗争に引きずりこまれ、徳川幕府による天下統一構想が乱されるのを恐れた。それが、鎖国の本当の理由だろうと著者は結論付けている。鎖国は3代目家光で完成する。江戸のキリシタン弾圧は1623年12月、高輪・札の辻で50人に及ぶ火刑で幕を閉じるが、1623年12月が文化・宗教的鎖国の始まりだったのだろう。

参考書籍:

「雑兵たちの戦場」 中世の傭兵と奴隷狩り 藤木久志著 朝日新聞社 1995

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