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2009年10月 9日 (金)

世代論に意味はない

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良く、ある特定の世代を無責任と非難する評論家がいる。田原総一郎が団塊、僕はこの語感が大嫌いだが、団塊世代は無責任だとテレビや雑誌で言い回っている。田原総一郎などはジャーナリストでもなんでもない。テレビ芸能人と変わりはしない。そんな人間に反論などする必要も感じないが、世代論はほとんど意味がないと思うのでそこは押さえておきたい。そもそもベビーブーマーの数が多いのは、1945年から46年に掛けて、男たちが一斉に兵役の義務から開放され、内地だけではなく、戦地や捕虜収容所から妻のもとに戻った結果だ。現代史のどのページを切り取って見ても、歴史の連続性から誰一人逃れることが出来ないのは自明なことだ。無責任と言うのなら、司馬遼太郎が一生涯掛けて追求しようとして結局は出来なかった敗戦の原因はどこにあるのか。ここでも田原総一郎は世代論を持ち出すのか。司馬遼太郎がノモンハン戦争を描くことはなかったのはよく知られている。と言うより司馬遼太郎が昭和の戦争と軍人を描くことは生涯なかったのはご存知の通りだ。それを司馬遼太郎の無責任さだと非難する人は誰もいない。司馬遼太郎は歴史の連続性の中で日露戦争を捉えているのは誰もが知っていることだ。それを踏まえての世代論は意味があるだろう。司馬遼太郎は帝国陸軍の変質は日露戦争直後に始まったと書く。だが、そこから始まる昭和の惨憺たる戦争の現代史を全て、その世代に責任があると非難しても意味がない。結局は「一億総ざんげ」で終わり岸や辻たちは敗戦後総理になり、自民党代議士にすらなっている。個々の責任が追求されることは決してなかった。田原総一郎や石原慎太郎の世代が戦争責任を十分追及せず、民主主義の成熟の邪魔ばかりをしたと彼らを世代で追求しても不毛だ。その世代にも優れたジャーナリストは存在する。故本田靖春や本多勝一などが田原や石原の対極に位置するのだろう。だからと言って軍国少年だった彼らを敗戦後、彼らを戦争に反対しなかった世代として非難しても意味はないではないか。結局は個々の資質であり、生涯掛けた生き方の問題だろう。個人に責任はあるが、世代に責任はない。村上春樹は「アンダーグラウンド」の長いあとがきの中で「身内の恥を表にださない。誰も責任を取らない組織のあり方が問題だ」と書いている。上が誰も責任を取らなかったノモンハン戦争に心底あきれ返り、慄然としている。折から「リオデジャネイロが石原都知事を批判」(世田谷通信)というニュースが飛び込んで来たが、この男の差別主義や無神経さ無責任さはあくまで石原慎太郎や田原総一郎世代の責任ではなく、石原慎太郎個人の資質の問題だろう。こんな男を都知事に選んだ都民個々人に責任はあるが、都民全体に責任がないのと同じことだ

閑話休題:

にいのりさん

忙しさにかまけて自分のブログを更新せず、大変失礼しました。真摯なご意見ありがとうございました。うれしく拝読しました。daily cafeteria 読ませていただきます。

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