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2009年3月1日 - 2009年3月7日

2009年3月 7日 (土)

 武士の誇りと 庶民の欲

昨日3月6日(金)「大江戸歌舞伎はこんなもの。」と言うタイトルのブログを書いたが、すこし続きを書きたい。
別に、江戸期以前のサムライ階級が立派だったとも思わないが、少なくとも江戸期の武士階級に護民官的な要素がなければ幕藩大名は成り立たなかっただろう。読書階級の武士は平時には官僚組織として働いたが、悪政を敷けば幕府に取りつぶされたからだ。

司馬遼太郎はヨーロッパ人の眼を借りて、ある幕末小説の中で庶民の生態を次のように描写している。これは開港直後の横浜港関内の外にたむろする人足達を見た白人の観察録から採られているようだ。”胸はくぼんでおり、ガニ股で歩く土民たち”。彼等は貧相でやせており、下帯ひとつで路傍で賭けをし、始終大声でやかましく立ち騒いでいる。”、欧米人の眼から見て武士階級と庶民階級は全く人種が違うと思われていた。その位、肉体や顔かたち、立ち居振る舞いは武士と庶民では大きく異なっていた。

武士は富を持つことは許されなかったが代わりに誇りを持たされ、農民や町人は土地や富を持つことは許されたが誇りを持つことは許されなかった。その結果、百姓町人は武士階級に対して際限なく卑屈に振舞うことを余儀なくられた。とも司馬遼太郎は続ける。もちろん、大名貸しをするほどの大商人はその限りではなかったろうが。

司馬遼太郎は現代のサラリーマンが上司や社長に対して時に見せる卑屈さが、どうにも遣り切れないと書く。そこに江戸封建の階級差が放つ270年の腐臭を嗅ぐからだろうか、とこのブログで書いたら穿ち過ぎか。僕等の大部分は非サムライ階級の出身である。

日本人の80%は農民であり町人であったのだ。司馬遼太郎の言う、「誇りを持たされなかった階層だ。」僕等・私達は文字通り、これも司馬遼太郎の言う”馬の骨”だ。その子孫である僕等、私達が明治維新後、そう簡単に自分達に自信が持てたはずがない。帝国大学が出来、士官学校や兵学校が造られた当初はまだ、士族や地主、大商人の息子達が進学出来た位だったろう。庶民が新階層の階段を登れるようになるには20世紀の初頭、1900年代まで待つ必要があったのだろう。それでも、欧州・ロシ以外で陸海軍士官が貴族階級出身でなかったのは日本人だけだった。

イザべラ・バードの描いた「日本奥地紀行」の東北地方は明治11年(1878年)のそれだが、庶民と氏族地主階級との差は全くなくなっていないことに驚かされる。イザベラ・バードは日光、金谷旅館で歓待されるのだが、奥方や娘、その兄、上流階級の立ち居振る舞いに魅了される。イギリスの上流階級に通じるものが有り、それが彼女の心に安らぎを与えてようだ。

今日のブログの締めに、明治政府の偉さを見せてくれる証拠を一つ、それは、どんな田舎でも一番立派な建物は小学校。全国に学校がどんどん建てられ子供達通い出している近代草創期の日本。これを僕等はいまでも誇りにして良いことだと思う。司馬遼太郎は下級武士出身の役人、官僚はほとんど汚職をしなかったと書いている。それが社会資本を充実させてゆく。これも僕等の誇りとして良い歴史的事実の一つだと思う。

参考書籍

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」読む 宮本常一 平凡社 2002/07

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2009年3月 6日 (金)

 「大江戸歌舞伎はこんなもの」が面白い

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桃尻娘シリーズ作家・イラストレーターの橋本治の新書に「大江戸歌舞伎はこんなもの」と言う分りやすい歌舞伎入門書がある。その読み易さもさることながら、「目からウロコの落ちる」歌舞伎解釈に行き当たったので、それをここに紹介しておきたい。

江戸期の庶民は政治(まつりごと)に関わることはうわさ話をすることすら厳しく禁止されていた。が、それが歌舞伎芝居の興隆に深く関わっていたと言うのだ。江戸庶民にも娯楽は許されていたのだから、芝居見物位は当然のことだろうで済んでしまう。

むろん、、江戸封建時代のこと、言論表現の自由は全く無かったのはご存知の通りだから、時の「政事」(まつりごと)をそのまま、歌舞伎舞台に掛ければ罰せられる恐れがあった。庶民がうっぷんを晴らす手段は「狂歌」くらいしかなかった。

歌舞伎・出し物では登場人物の名前を微妙に変え、装束と時代を室町時代に移し変えて、時の権力からの弾圧を逃れた。と、ここまでは歌舞伎事情通は全部知っていることばかりだ。

さて、江戸も末期に近い1850年代、天保年間の江戸総人口は128万程と言われている。庄屋・名主まで含めて、その20%が武士階級だとすると25,6万人が侍か?参勤交代時には瞬間的には50万人近くが江戸に滞留した可能性もある。

それでも平均すれば、女性は極端に少ない都市だったと言われるが、町人階級が102万、武士階級が26万人と言う構成だったと考えられる。その武士階級はおおっぴらに芝居小屋には出入りすることが出来なかった。

そうなると、舞台に掛ける出し物は戯作者と歌舞伎役者の間である程度自由裁量がきいたであろう。なんと言ってもうるさい幕府役人の眼が現場にないのだ。芝居小屋の中だけは表現自由の解放区と言えたのではないだろうか?

橋本治は江戸歌舞伎の有り様を次のような見方で結論付けている。社会的責任を負う必要の無かった町人階級は鎖国・封建の260年間、「侍のまねごと」で遊んでいたのだと言うのだ。子供は無邪気に大人のまねをして遊ぶものだ。

江戸歌舞伎は庶民が「サムライごっこ」をして遊ぶ空間だっと彼は書いている。もちろん、近松にも西鶴にも「町人物」はいくらでも有るが、こと侍が主役、脇役を張る演目は大人のマネをする子供の遊びと言う見方は斬新でおもろいではないか。

参考書籍

「大江戸歌舞伎はこんなもの」 橋本治 筑摩書房 2001

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2009年3月 5日 (木)

 「逝きし世の面影」

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「逝きし世の面影」(2005 年初版)が各界の評判を取って4年になる。「日本奥地紀行」で有名なイザベラ・バードの著作と同じ平凡社ライブラリーに入っているので書店で簡単に手に取ることが出来る。

この「逝き世の面影」は渡辺京二が幕末に日本を訪れた欧米人の目に映った幸福な庶民の生活記録を丹念に集め、一部は自ら再翻訳も行い編集出版したものだ。

この本に描かれた鎖国時代を生きた江戸期の庶民の生活は、従来の重い年貢に苦しむ下層階級と言うイメージから程遠い。豊かではないにしても、清潔な衣服を身に着け、充分な栄養を取ってる庶民たちの暮らし。家具も無く極めて簡素だが、季節の花々で飾られた快適な住居に住む勤勉な庶民の生活。その以外な姿が欧米人の手で鮮やかに描かれている。

あまり豊かではないと書いたが、天領の農民は見回り役人の数も少なく、年貢割合も据え置かれている場合が多かっから大名支配下の農民より比較的豊かだったのだろうという外国人達の観察も見える。

意外に思ったのは庶民階級の夫がよく子供達の面倒を見ているという描写についてだった。兄弟、姉妹が必ず幼児を背中に背負って遊んでいる。兄や姉が妹、弟の世話をして生きている。いずれにしろ、子供達はみんな愛情深く育てられている。

鎖国が社会を安定させていた、皆質素な為か、貧富の差の少ない江戸期の庶民達。それなりに充実して彼らの生活を驚嘆の眼で見ているヨーロッパ人達。彼等は19世紀後半の産業革命で生まれた圧倒的貧困を目撃している。極貧に喘ぐ最下層の労働者達を自国イギリスやフランスで日常的に眼にしていたからだ。

ほぼ、同時代にロンドン貧民街で持たざる者達に深い同情を覚えながら、マルクスは「資本論」を書き始める。パリ・コンミューンは1971に勃発している。

日本にも工業化社会の元で圧倒的貧困層が明治維新後発生してくる。時代の波が押し寄せる前の束の間の楽園がそこにはあった。それは性的な放埓さをも意味する楽園だが、社会的政治的責任も果たさずいられた庶民の楽園は長くは続かない。それはヨーロッパ人も予測し、書き残している。

参考書籍

「逝き世の面影」渡辺京二 平凡社ライブラリー 2005 2007

「日本奥地紀行」イザベラ・バード  高梨健吉訳 平凡社ライブラリー 2000/02

「日本奥地紀行を読む」宮本常一  平凡社ライブラリー 2002

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2009年3月 3日 (火)

 ある大使館からの手紙

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仕事で色々な国の人達と接する機会が多い。それも大国は殆どなく、欧州の周辺国やユーラシア・アフリカ大陸の国々が主だ。東京に来る代理店の人達との付き合いや在日大使館主催のパーティに参加するのも僕の仕事だ。

現在、付き合いのある国々をまず指折り数えてみた。次に頭の中でABCアルファベット順に並べて見ると20ヵ国以上になる。当然どの国とも礼儀・挨拶は欠かせなくなる。季節はずれの話題ではあるが、クリスマス・カードや年賀状の交換を続けていて、僕はある面白いことを発見した。

言うまでもなく、挨拶状にもお国柄が表れるのだが、まず、話の前提としてイスラム圏はクリスマス・カードを送って来ない。常識として、こちらも年賀状しか出さないが。ユダヤ教徒ももちろん、クリスマス・カードの交換はしない。

そうなるとカトリック、正教、プロテスタント、聖公会系とのカード交換となるのだが、僕はお返しにクリスマス・カードは言うまでも無く英文で送るのだが、年賀状は日本語で送ることにしている。

別に北米や欧州の大国のまねをするわけでもないが、日本国内で出す年賀状にわざわざ英語を使う必要はないと思うからだ。当然どこの大国も断固として自国語を使う。彼らが必要と思えば日本語も添えてはあるが。自国語でしか書かない国もいくらもある。

さて、おもしろいことの発見とは何か、日本語で挨拶状を返してくれるのはポーランド大使館だけだったと言うものだ。どこの大使館にも日本人職員はいる。大国の大使館では笑止なことに虎の威を借りる植民地根性丸出しの狐もいたりするのだが、おしなべて、小さな国々に雇用されている人達は謙虚なものだ。日本語の出来る本国人も多い。

従って、大使や書記官に日本語で年賀状を出しても一向に失礼には当たらない。英語で返礼してくれることで充分なのだが、日本語の年賀状を下さるポーランド大使館により親近感を感じ、仕事でもお返ししなくてはと、こちらも力が入るのは人情と言うものだろう。

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2009年3月 2日 (月)

 「国境の南 太陽の西」

人気ブログランキングへ村上春樹の「国境の南 太陽の西」を英語翻訳版で読み終えた。何故そんなことをしているのかと問われれば、誰もあなたにそんなことを聞きはしない。と突っ込まれそうだが既出の殆どの著作を読んでしまい、村上春樹の新作を待ち切れないからだと答えるだろう。

読みたいと思う精神的飢餓状態を癒すには、趣向を変えて村上春樹の翻訳物まで取りあえずは読んで見ようと思うものなのだ。本人が翻訳したカーバーやチャンドラーからフィッツジェラルドまで読んではいるのだが。

英語で「スプートニクの恋人」も同時に読んだのだが、外国語で読んでも、元の著作でも、どちらも哀切極まりない愛と喪失の物語になっているのは当然ながら変らない。みゅーの同性への片思いも愛には変わりは無いのだ。

ただ、「国境の南 太陽の西」の終盤近く”始と島本さんが車で別荘に向かう場面、島本さんは始にどこか遠くへ連れて行ってもらいたい。と訴える。もし、今もし、イエスと言えば二人は彼岸の彼方へと向かうことになる。

それは近松の道行のような、ふたりとも戻れないところ連れて行って欲しいと願う島本さんの気持ちは痛いほど分るが、幸せな結婚を続けている始に踏み切る勇気はない。そして島本さんが二度と始の前に現れることはない。

この場面は英語版で読んでも泣けた。そのほうが直接感情に訴えるようで泣けた。やはり村上春樹は良いと改めて感じた。これほど世界中で村上春樹が読まれるのは、読後のカタルシスに理由があるのだろうか。やはり、心が休まるからだろう。

7,8年前にベラルーシで出会った27,8歳の美女も村上春樹の大フアンだったが、同じような感想を持っていた。その国の首都でも、それほど多くロシアで出版されている訳ではないので、出ているものをぼろぼろになるまで回し読みをするのだと言っていた。

話は変るが昔、僕は大江健三郎に夢中になっていた時期があった。30代で全く読まなくなったが、どんなに無知な10代でも読み続けていれば、ひとつくらい学ぶことはある。大江か彼の恩師、渡辺一男の言葉だったと思うが「人は何故小説を読むのかと言う、問いに答えて、「同時代に自分がどこ居るのかを知る為」と答えている。

村上春樹が熱狂的に読まれる訳もこの辺りに有るのかも知れない。

参考書籍:

「国境の南、太陽の西」 村上春樹 1995 講談社文庫

「スプートニクの恋人」 村上春樹 2001 講談社文庫

「ガルガンチュア物語」 渡辺一男 1973 岩波文庫(お薦めです。)

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2009年3月 1日 (日)

 「消された絵師」

消された絵師」・「岩佐又兵衛」異名「浮世又兵衛」と呼ばれた浮世絵師がいた。その名前を始めて目にしたのはテレビ東京の美術番組「美の巨人達」であったと思う。番組構成は「山中常盤物語絵巻」を中心に進められていた。

牛若丸伝説を主題に復讐物語が全12巻、延べ150mを超える大作となり、極彩色で描かれた絵巻である。この番組制作にも深く関わった東大名誉教授、辻惟雄の名前もこの時初めて知った。

僕が「岩佐又兵衛」に深い興味を持ったのは、この浮世絵の創始者が長く日本美樹史上から消された存在となっていたと知ったからだ。辻惟雄を遡ること2代、大先輩の東京帝大教授、藤懸静也により存在を全否定されていた「岩佐又兵衛」は研究そのものが戦後までタブーだったとは何とも刺激的な話ではないか?

その上、この「山中常盤」は当時来歴が不明なまま、昭和3年(1928)にドイツ人に購入され海外流出する寸前に、一出版社の創業者、長谷川巳之吉(1894-1973)の奔走により阻止されているの言うのも劇的だ。この事実そのものが物語になる。

また、「岩佐又兵衛」の生い立ちそのもの悲劇性が僕のような浮世絵を前にした門外漢の目にも新鮮に写る。
「岩佐又兵衛」は織田信長の家来、戦国大名として名高かった荒木村重の唯一の遺児だった言うのだ。

村重は、信長に突然叛旗を翻し、武力では決して落とされることの無かった石山本願寺に味方し、一族がことごとく虐殺されたが、「又兵衛」だけは乳母により助け出されている。世が世なら、仮に、江戸初期でも一介の絵師で終わる身分ではない。

「荒木村重」は自分一人だけが助かり、卑怯未練の大名の代名詞でもある。司馬遼太郎の数少ない戯曲の一つ「鬼火ー摂津守の叛乱」でも取り上げられているのでご存じの方は多いと思う。

それはともかく、辻惟雄のほとんど孤軍奮闘で漸く「岩佐又兵衛」に光が当りつつある。「又兵衛」は地下工房とでも言うべき「又兵衛工房」を持ち落款もない野卑で残酷、それでいてユーモラスな絵巻を大量に生みだしている。それは殆ど劇画を思わせる。また、戦国の血腥さを一身に具現した絵師でもあった。いわば「岩佐又兵衛」は現代の我々に浮世絵を通して戦国を
実相を見せてくれているのだ。

2008年10月14日NHKハイビジョン、2009年2月15日NHK教育の新日曜美術館など、特集で取り上がられることも多くなったのは辻惟雄先生の功績だろう。これからもっと日の目を見て良い浮世絵師「岩佐又兵衛」に注目して行きたい。

参考書籍:

「岩佐又兵衛」浮世絵をつくった男の謎 辻惟雄 文春文庫 2008

「奇想の系譜」 辻惟雄 ちくま学芸文庫 2004

「岩佐又兵衛絵巻」山中常盤物語絵巻 堀江物語絵巻 浄瑠璃物語絵巻 MOA美術館 1982 1992 

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