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2009年3月8日 - 2009年3月14日

2009年3月14日 (土)

 漆間巌と「ねじまき鳥クロニクル」

<人気ブログランキングへp>3月14日付「世に倦む日々」のブログ記事、”漆間巌と「ねじまき鳥クロニクル」ー 対ソ謀略工作員の運命”を読んで見た。漆間巌と村上春樹。一見すると関係が無さそうなふたりを結びつける記号が旧ソ連だ。

「世に倦む日々」ブログ主が注目する現在官僚トップの怪人物、漆間巌。ブログ主は彼の経歴は対ソ諜報工作責任者、それも軍事諜報エリートとして警察庁から出向していたキャリア官僚のそれではないかと疑っている。それも自分で望んで出向したとすれば、不気味な趣向の官僚と言える。隠密裏にすべては決定されてゆく。謀略も然りだ。

そこから、日頃それほど注目されないノモンハン事件、(1939年)に話を持って行っているのは、流石だと思う。村上春樹は「辺境・近境」の中で、”まるで戦闘直後の現場そのもの”と50年後の戦場跡を訪れ、その感想を書き留め、司馬遼太郎に書くべき資料を集めるだけ集めてさせて”この戦争を書いたら僕は死んでしまう”と言わせたノモンハン戦争。

僕は田中克彦の著作に出会うまで、この戦争をモンゴル共和国が「チチハル河の戦い」と呼び、祖国防衛戦争と歴史的に位置付けていることを全く知らなかった。モンゴル共和国の立場に立てば、正にモンゴル共和国内を流れているチチハル河挟み、1939年5月から8月まで断続的に戦われた大戦争なのだから当然なのだ。

もちろん、モンゴル共和国軍もソ連の武器で共同して日本の帝国陸軍と戦っている。この戦争の戦略的位置付けは「世に倦む日々」の3月14日付けタイトル記事を読んで貰えば理解出来るのでここでは触れない、ただ、双方が19,000人前後の死傷者を出し、日ソが他国の領土で戦った2度目の戦争だったことは覚えて置きたい。

ノモンハン戦争については不思議な程日本語での著作は少ない。ただ、米ソで優れた著作が出されており下記のように日本語訳で読むことが出来る。日本映画では山本薩夫監督「戦争と人間」第3部(1973年日活)を観て欲しい。敗戦間際、旧満州で絶望的な戦闘を強いられた作家、五味川純平の実体験に基づいて作られた大作として知られている。

本日の最後に、どう有っても漆間巌、大林宏、安部晋三による謀略に乗せられてはいけないと言いたい。彼等はロシアとの戦争を諦めてはいない。折しも安倍晋三は復活を狙っている。米国は植民地兵として自衛隊が戦争に参加するのは大賛成だろう。自衛隊兵を自分達の楯にすれば良いだけなのだから。米国の戦略は大統領が変わったからと言って変わりはしない。

参考書籍

「ことばと国家」田中克彦 岩波新書 1981

「ノモンハンの戦い」S.N.シュシキン 田中克彦訳 岩波書店 2001

「ノモンハン草原の日ソ戦 1939」A.D.クックス 岩崎俊夫 吉本晋一郎訳 朝日新聞社1989 

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2009年3月13日 (金)

 「反貧困」

反貧困」( 湯浅誠著)岩波新書を読んだ直後、3月1日(日)NHK教育でETV特集「ひとりと一匹たち多摩川に暮らすホームレスと猫・共生の物語」を観た。衝撃的だったのは多摩川河川敷沿いでは毎月のように自殺者が出ており、最期の地に捧げられる花束が絶えないというナレーターの言葉だった。

考えて見て欲しい。一年に33.000人の自殺者が出る国とはどう言う国なのか?毎日、90人を超える人がどこかで自ら命を絶っている。病気や失業で生活に困り追い込まれて自死をやむなく選んでいる。

これはもう内戦状態なのではないか?イラクを侵略し続ける米兵の一日の死者は30人から40人。実は僕達、私達は見えない戦争を戦っているのではないか?敵は明確に見えないのに死者の数だけはどんどん増えて行く。

戦線はどんどん拡大し死者も正比例して増えて行く。失業と言う名の戦場は全土に拡大し続けている。だが、敵は相変わらず見えない。貧困と言う名の戦場の無慈悲さは放り込まれた人に勝ち目は殆どないことだ。

それは「貧困」と言う見えない敵に対抗する有効な手段が持たざる者の側には見付からないからだ。現代の持たざる階級には(お金や高い学歴、使える資格)と言う武器がない。政府の武器庫(お金、高い資格や学歴を与える人達の組織)を持たざる側に渡そうなどと役人は金輪際考えもしない。これは勿論、政府の強制力が必要だ。

高給役人は税金を名もない市民に使わせはしない。それを自分達だけで消費しようと考える。その為に有力な政治家を見方に付ける。どんな腐った組織でも組織自体を生き延びさせようと言う力が働く。税金を無駄に消費し続ける組織をのものを無くさなくては僕等私達の税金は役人、族議員達に消費され尽くす。権限を官僚から地域の役人に財源と共に移行しなくては持たざるものは救われない。

貧困は自己責任なのか?それは断じて違う。本来役人や政治家が担うべき責任から逃れる為に自己責任と言う言葉を倒錯して使い、弱い立場の持たざる人々に残酷な攻撃を仕掛けているのだ。こんな卑劣な役人、政治家の言葉にだまされてはいけない。私達のお金がどう使われているのかを監視し、浪費する側の説明責任を追及して行かなくてはならない。まずは区議会や市議会を傍聴して見ることから始めたい。私達の納めた税金が弱い立場の人々の自立を助ける為に使われるように、政権が移行し、地方に財源・権限が移行するまで監視しよう。もちろん、地域の役人を監視する市民組織はいつまでも必要だ。

 

参考書籍

「反貧困」 湯浅誠著 岩波新書 2008

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2009年3月 8日 (日)

 幸徳秋水と大逆事件

人気ブログランキングへ引き続き、何故僕等自身とその社会が政治意識において未成熟であるかを考える。日本国民の2割に満たない士族階級が、明治後も理性ある市民層を形成したと考えるのがもっとも自然だろう。それに裕福な商人層の子弟、極少数の地主階級の息子や娘。

意志的な市民層を形作り、批判精神旺盛な世論が成り立つには絶対的な数が足りない。それでも僕等の社会に市民社会萌芽のチャンスは有った。だが、それは明治新政府により帝国憲法成立と引き換えにつぶされてしまった。

そんな時代を先駆的に駆け抜けた人物がいた。その人の名は幸徳秋水。その名前は歴史の授業で簡単に取り上げられるだけだが、彼は中江兆民の愛弟子だった。ルソーの「社会契約論」を日本で初翻訳した中江兆民。その思想を実践的に果たそうとした幸徳秋水の歴史的役割は決して小さくない。

幸徳秋水の名前は「大逆事件」、現在では国による冤罪事件の典型として良く取り上げられる。時の天皇暗殺を企てたと言う嫌疑を受け、たちまちのうちに処刑されてしまった事件の首謀者としてあまりにも有名だ。

彼は明治33年(1900年)には憲政会の野合に抗議し、翌34年(1901年)には世界史的に見ても極めて速い時期に帝国主義に反対する論陣を張っている。現在では、彼の活動は国際的にも評価が高まっていると言う。

考えてみると、日本で市民層が育ち始めるのは明治末から大正にかけてだろう。おおざっぱに見て、1910-15年あたりになるのか。それは近代的都市住民が形造られた時期に当たると見て良いだろう。学問と職を求めて上京する人々の群れが形作る帝都、東京。

幸徳秋水は明治43年(1910年)に判決後異例の速さで処刑されている。時の政府の慌てぶりが手に取るように分かる。出来るだけ早く意志的な市民層が造られたり、今では何でもない民主的な考えが大衆に広がる芽を摘み取ろうと明治政府は考えたのだろう。

それには天皇暗殺計画は一般庶民に取っては衝撃的事件であり、幸徳秋水等は大不敬の大悪人に仕立て挙げなくてはならなかった。画して、幸徳秋水達は歴史の闇に葬り去られ、民主的社会成熟の絶好の機会は失われた。

尚、明治37年(1904年)に始まり、時の合州国大統領、C.ルーズベルトの仲介で、辛くも講和に持ち込まれた日露戦争は同時代の明治38年(1905年)の出来事だ。大衆は講和の少ない成果にいらだち、焼き打ち・暴動を引き起こす。

世界は弱肉強食、帝国主義の時代。帝国日本も強国に歩調を合わせ始める。幸徳秋水の思想と実践活動は明治政府に取って本当に邪魔だったのだろう。画して、明治政府の変質が始まり、それは昭和20年の敗戦まで止まらない。

尚、国家によるでっちあげ・冤罪は北米の「サッコとバンゼッティ事件」(1920年)や時代を少し遡ればフランスの「ドレフュス大尉事件」(1894年)といくらでも例に上げることが出来る。権力者による報道をうのみにしない姿勢がが大切なのだろうと思う。

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