「出羽の守」と揶揄する意図
「出羽の守」と揶揄する意図
一頃、イギリスでは、フランスでは、米国ではと言い立てる出羽の守」と揶揄される、欧米からの帰国者達が居たものだ。大概は2週間余りの海外旅行で知ったかぶりをする旅行者に被せられた「守の位」だった。揶揄する側は少しばかりの愛国心と嫉妬混じりで「出羽の守」を詰ったのだろう。デハノカミと揶揄するが、それがたわいもないことであれば、なじるほうも、なじられるほうも別に問題視することでもない。微笑ましいくらいの話だ。
たとえば、欧州の街角では店頭の果物や野菜にむやみに手を触れないとか、パリのカフェではコーヒーに熱々のミルクをたっぷり注いでくれるのがカフェ・オレだとか。このような些細な習慣の違いを欧米帰りの旅行者が無邪気に触れ回るのをたしなめる程度に彼や彼女個人を出羽の守と呼ぶならそれはまあ良い。言うほうも言われるほうも、お互いに実害は全くない。
問題なのは優れた社会的セイフティネットを構築している北欧やフランス、オランダの諸制度を識者が取り上げると出羽の守とレッテルを張り、声高に非難する似非知識人や政治評論家の姿勢だ。漸く民主党政権で実現しそうな子供手当。高校大学の無償化。失業者に対する職業訓練期間中の給付金支払い。年齢で制限しない医療費の一律無償化など。とっくの昔、少なくとも70年代の後半には日本でも実現していなければならなかった社会保障制度だった。
もし、税金の使われ方に透明性が確保出来るなら、高福祉で高負担な社会の有り方は多いに結構ではないか。それを非難する頭の古い政治評論家の三宅久之や頭の悪い経済評論家の財部誠一はテレビ番組スポンサーの背後に構える経団連の嫌がることは言わないし、しない。哀れな飼い犬は餌を与えてくれるご主人様には決して吼え付かない。
テレビ・カメラに向かい、膨大な社内留保に手が付きそうな議論は芽のうちに摘みましたよ。と彼らは吠えて見せる。「出羽の守」を揶揄することで、高負担・高福祉を実現している北欧やフランス、オランダを貶めている。日本でも法人税が福祉目的税化しないように巧妙にも、議論を海外旅行者のたわいもない与太話にすり替えているのだ。田原総一郎など経団連のピエロそのものだ。
テレビ・4大マスコミは決して市民の味方ではない。田原総一郎や三宅久之、財部誠一などを使い世論を自己責任や自助努力にすり替えて行く。自己責任は本来官僚や政治家に向かい使われる言葉だ。それこそ欧米で自己責任論が公的な場で個人に向かうことはない。
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